上杉神社の上杉謙信の逸話など紹介しています

上杉謙信

1530年越後守護代 長尾為影の末子として春日山城に生まれ(現在の新潟県上越市) 父の死後、関東管領職の上杉家の名称を譲られ長尾景虎から上杉政虎へと名のります。
49年の生涯はいくさ、戦、の日々で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、 能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げました。
特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世たびたび物語として描かれており、よく知られています。
謙信は天正6年(1578年)春日山城内で死亡しています。享年49歳死因は脳溢血との見方が強く遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕(かめ) の中へ納め漆で密封しています。この甕は上杉家が米沢に移った(1601年)後も米沢城本丸一角に安置されていましたが明治維新の後、 歴代藩主が眠る上杉家廟所へと移されました。
更に謙信は祭神としてこの米沢の地、上杉神社に祀られています。
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上杉謙信には色々な逸話が伝えられています。
「敵に塩を送る」
戦国時代、遠江の今川と相模の北条の両氏から武田信玄が、経済封鎖をされ塩不足で困窮していたとき、 長年敵対関係にあった上杉謙信が武田信玄に塩を送って助けたという話。
「上杉謙信女性説」
スペインのゴンザレスという人物が日本についての調査報告書を国王フェリペ2世宛てに送った手紙の中で謙信を 「叔母」と形容したことにより。
「出家騒動」
家臣団の内部抗争・国人層の離反・信玄との戦いが膠着状態に陥りつつある状況に嫌気がさした謙信(当時は長尾景虎) は春日山林泉寺に毘沙門天堂に篭り本気で出家を願った(27歳)その後の謙信は右手に利剣を左手に数珠を持つ。

現在、米沢城跡の入口舞鶴橋、上杉家廟所入口に「毘」「龍」の旗が掲げられています。(写真参照) 毘沙門天の“毘”と懸乱竜の“龍”の軍旗は毘沙門天に代わって世の中の邪悪な者を懲らしめる正義の軍であり、 一度戦えば天から風を呼ぶ竜の如く雄々しく勇ましい軍であることを示したものだそうです。
吸い込まれるような青い空。義の使者、白の軍旗が晴れがましかった。
ここで陣太鼓が聞こえてくれば最高だ。謙信さん、、、。
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